2021/01/22 別れ

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令和3年1月22日金曜日午前11時過ぎ、母が息を引き取った。

このブログを書いてUPするに際して、ふたつ心に引っ掛かることがあった。

ひとつは、親の死をブログのネタにすべきかということ、もうひとつは、そこまでプライベートなことを書くべきかということ。

ただ、今思っていることを記録しておくことは自分にとって意味のあることと思ったし、人に見られる方が書く方に緊張感が生まれると思い、執筆、公開に至った。

それに、以前のブログで「母はもう家に帰ってこない。病院でその生涯を終える」ことは書いていたので、その後どうなったか触れないのも無責任だという思いもあった。

なので、私が母を亡くしたことに同情してほしいとかそういう意図は一切なく、ほぼ、自分がこの先の人生でなにか行き詰まったりした時に読み返そう、そういう意図で書いている。

母の死から1ヶ月を経てようやくこれを書き始めているが、もしかしたら取り留めのない文章になるかもしれない。

そもそも、母はいわゆる「糖尿病」で、人工透析治療を受けていた。もう15年以上になる。1日4~5時間、週3回。

ただ、直接の死因はそれではなかった。人工透析というのは本人の「腎臓」が機能しなくなってそれを人工のものに頼るということである(細かくは違うかもしれない。私は医療の知識はないのでご了承願いたい)。

昨年の正月くらいから、母は寝室とリビングの行き来に自宅の階段を登り降りすることができなくなった。リビングのソファーベッドで寝るようになった。思えばそれが「終わりの始まり」だったのかな。

程なくして、血中の「アンモニア」の数値が跳ね上がる「高アンモニア血症」という状態になった。これは腎臓ではなく「肝臓」の機能障害のせいであるらしい。母は基本酒も飲まなかったので、「なぜ肝臓?」と思った。

この状態になると、意識障害が起こる。

先ほど「昨年の正月」と書いたが、その後2月と3月に意識を失って二度入院した。

二度めの入院から半ば強引に帰ってきて、4月下旬、私の誕生日と父母の結婚記念日は1日違いなのでそれを祝う意味でお寿司を持ち帰って食べた。それが、家族全員が揃う最後の食卓となった。

4月28日、また意識を失って入院。それ以来、母は帰宅することができなかった。

あいにくのコロナ禍で、一旦面会も中止された。緊急事態宣言解除に伴い、週1回15分、1家族1名の面会が許可された。基本は私の父が面会に行った。私は夏に一回面会した。それが母と会話をする最後になるとは思ってもみなかった。

12月、再び緊急事態宣言で面会が中止に。病院側の配慮で、クリスマスの時に看護師さんと撮った写真が1枚届いた。

そこに写っている母の姿に驚いた。すっかり白髪になってしまっていた。母は普段黒染めしていたから、地毛がそんなに白いなんて。

3年前に仙台に会いに行った母の母である祖母にすごく似てきていた(その祖母も昨年亡くなった)。

私は大きな勘違いをしていた。母はもう家に帰ってくることはないが、病院で四六時中病状をチェックされていればまだまだ生き続けていられるものだと思っていた。

昨夏私が見舞いに行った頃、実はあまり状態が良くなかった。首につながれたチューブを自分で外してしまわないように、手をミトンで覆われ固定されていた。

でもその後そのチューブもミトンも外され、容態が安定したと父から聞いていたから、少し安心していたのである。

しかし実際は、病状はそんな軽いものではなかった。

母の人工透析は火、木、土曜日だった。

1月のある火曜日。母の血圧が上がらなくなり、その状態で透析治療を続行することは危険なため、中断したと連絡が来た。

人工透析治療をはじめた患者がそれをやめることは、死に直結する。

次の木曜日。また同じ状態で透析治療が続行できなくなった。

いよいよ、この段階で死が目前に迫っていた。

ただ、上記の病院からの連絡を電話で受けたのは、父と妹。

私は直接それに関わっていないため、事の深刻さにあまり気づいていなかった(この文章は後から書いているから、「今思えば」の話で書き進めている)。

その木曜日、病院からの連絡があった。今は面会禁止だが特別に許可するので明日来てもいい。家族は二人まで大丈夫だ、と。

これはもう、そういうことだよね。「最後に一目会ってください」ということだったのであろう。

なので、父と私が翌日面会に行くことになった。妹は仕事がある。

私はそれを聞いて、その日の夜勤へと向かった。

で、これは後から聞いた話なのだが、その後再度病院から連絡があり、急遽父だけその木曜日の夕方に面会の許可が出て面会に行った、と。

病院側は翌金曜日の午後までもたない可能性があると考えたということであろう。今思えばそれは病院の好判断だった。まだ意識のある母と父は面会、会話ができた。

ただ、それが最後だった。

翌朝6時前、父からメールと着信があった。「母危篤」と。

私はそれに気付かず、8時過ぎまで仕事をしていた。その日の午後で母と話せるのは最後になるかもしれないんだな、とか考えながら。

普段なら勤務中でもトイレタイムなどにスマホをチェックするのだが、その日に限って一度もトイレに行かなかった。

でも仕事は9時までだったので、その連絡は見ないで良かったのかもしれない。そわそわしながら働くのが数十分で済んだ。

勤務を終えてすぐに病院に向かった。母はまだ息をしていたが、もう意識は無かった。妹も仕事を休んで病室に来ていて、皮肉なことに去年の4月以来9ヶ月ぶりに家族が揃った。

それから2時間くらい、母は頑張ったがついに息を引き取った。

父と妹は泣かなかった。覚悟ができていたのだろう。私だけ一人、泣く、というか声は出ずとも涙だけ止まらなかった。たぶんどこかで自分は現実から目を背けていたからだと思う。

ここまで父からも幾度か、「母ちゃんはもうヤバいかもしれない、厳しいと思う」と聞いていた。

でもその「ヤバい」のニュアンスが、自分だけ甘く考えていたのかなぁ、と。

私は医療、介護関係者でもなければ人を殺めたことももちろんないので、目の前で人が死ぬ瞬間を初めて目の当たりにした。それはそれなりに衝撃的なことであった。既に亡くなった人、ご遺体を見たことはあるが。

自分の母だから直視できた。しかし赤の他人なら、直視できなかったかもしれない。メンタルが持っていかれたかもしれない。

そういう意味でも、普段から人の死と身近に接する職業の人などはすごいな、とあらためて思った。

そして、医師が病室に来て、母の死亡を正式に確認すると、私たち家族は一旦病室から出された。

看護師さん達が最期に母の身なりを整えて、化粧まで施してくれたわけだが、それもすごいな、と。

これまで母を担当していた看護師さんがやってくれたのだろうか?そこまでは確認してないが、なんというかもう本当に感謝の念でいっぱい。

看護師さんってそういうことまでやるんだな、と。

冷静に考えれば、病院に葬儀屋がスタンバイしてるわけもなければ、そういう専門の職の人がそこにいるわけでもないのだから、誰がやるかっていったら看護師さんなんだろうけど、それを知る機会が自分には今までなかった。無知だった。

だから、母の死の直後はただ悲しみの感情だけではなく、母を今まで面倒見てくれた人たちへの感謝の気持ちとか(特に最後の9ヶ月は家族よりも身近にいたわけだから)、そういう気持ちがないまぜになって複雑な心境だった。

本当なら、その日の午後に面会があった。母と会話をするつもりだった。できなかった。

翻って、12月の再度の緊急事態宣言の前ならば、面会に行こうと思えば行けた。週1回父が行く時に「今回は代わって」って言えばいいだけだったのだから。それをしなかった自分を「薄情だな」と思った。

ただ、何を後悔してももう遅いのである。

それに、それらは全部「自分視点」での話。

母の立場に立てば、ここまで闘病生活をもう、じゅうぶん頑張ったと言えるのかもしれない。

夜勤明けだったから自分はそこで帰宅した。葬儀屋の手配だったりとか、母の遺体を葬儀屋へ引き渡したりだとかは父が行った。

母の遺体は家へは帰さず、葬儀の日まで葬儀屋にて待つこととなった。

いろいろな事情で、葬儀は母が亡くなってから9日後となった。

火葬場の予約が埋まってるということである。

それだけ亡くなる人が多いのか、となんとも言えない気持ちとなった。

ちなみに私が住む自治体には火葬場は1ヶ所のみ。どうしてもというならば近隣の市で行ってもらうこともできるみたいだが、費用は文字通り桁違い。

いま、1ヶ月過ぎて振り返ってこれを書いているから冷静さを取り戻せているが、その当時は本当に、文字通り「なんとも言えない気持ち」で日々を過ごしていた。

感情の赴くままの自分と、努めて冷静に振る舞う自分が共存していた感じ。

食欲が失せて1日1食になったけれど、結構平気だった。

仕事は休まなかった。葬儀の当日だけ休ませてもらって、その前ちょうど2連休だったのと合わせて、たまたまいつ以来かわからない3連休になったけれど。

喪服は、十二、三年前に当時勤めていた会社の社長のお父様が亡くなった時に買って着たのだけど、それが見当たらない。

ただそれからもう20kg近く体重が増えてるから、見つけても着れないだろうと、レンタルした。

せめてもの抵抗で食欲がないのを利用して、葬儀までの9日間に3kg減らしてみたけれど(今はそこから1kgは戻った)。

その9日間は長かったのかあっという間だったのか、もう忘れてしまった。

ただ、母が亡くなっても自分の生活が特に何も変わらないのが逆に虚しかった。

というのも、母は既に去年の4月から家にいなかったから。それまでは母の週3回の透析のために父が病院へ車で送り迎えをしたり、たまには迎えだけ自分が行ったりしてたけど、それも元々去年から無くなってたから本当に何も変わらない。

我が家に一台の車が、そういう理由で空いてることが多くなったから自分が通勤に車を利用できることが増えて、バス代がかからなくなったとかそんなくらい。

そんなの、母が亡くなったことに比べたらちっぽけなことすぎる。

9日が経ち葬儀の日となった。

こんなご時世だから親戚も呼べず。母は仙台出身だが母方の親戚は全員不参加。私たちが去年祖母の葬儀に仙台へ行けなかったのと同じだ。

父の兄弟がたまたま同じ市内に二人住んでいるので、その伯父さん夫妻二組と母の友人数名、そして私たち家族のみで行った。

葬儀の前に家族だけで「納棺式」というのを行った。これは初めての経験だった。

私は、最初から最後まで葬儀に参加するのはこれで二度目。小学生の時に母の父、つまり祖父の葬儀に参加して以来三十年以上ぶりなのだが、その時は納棺式なんてやらなかったように思う。

納棺式というのは、文字通り母の遺体を棺桶に納めるわけだが、その前に納棺師の方々が母の最期の洗髪やメイクをしたり、足袋を履かせたりするのを遺族の前で行ってくれるのである。

9日ぶりに対面した母は、亡くなった日と変わらないように見えた。葬儀屋さんがしっかり管理してくれていたのだろう。

そして、亡くなった日から葬儀まで全ての段取りを手配してくれた葬儀屋の担当の方はそれなりの年齢の男性の方だったのだが、納棺師の方々は三名、全て若い人たちだった。

二十代前半と思われる女性、そして三十歳手前くらいかと思われる男性二名。

それがとても私には驚きだった。病院で看護師さんに抱いた気持ちと同様、本当に感謝しかない。

私のような弱い人間は、死と隣り合わせの職業や、死者と向き合うような職業には到底就けないと思う。さっきも書いたが、メンタルが持っていかれてしまうと思う。

それを若い人たちが行っているのがとても衝撃だった。

葬式の費用はとても高額だし、世の中には「人の死で商売する」ことを快く思わない者もいるだろう。だが、私はそうは思わない。

とても尊い仕事だ、と彼らを見て思った。

重ね重ね言うが、私にはできない。仕事だから、と割り切れない。

話を戻して、彼らにきちんとケアしてもらった母の遺体を棺に入れる頃には、葬儀の参列者の方々が葬儀場へ集まっていた。

それからはあっという間だった。葬儀そのものは、このご時世だから父が極力まで質素なものにした。そして我が家は無宗教なので戒名とかそういうのも無し。お坊さんも呼んでない。

参加者も少ないので葬儀自体もすぐ終わった。母のために泣いてくれる人たちもいて、ありがたいなと思った。みんなで棺に花をたくさん入れて、出棺となった。

父が霊柩車へ同乗し、私と妹、そして伯父さん夫婦が1組だけついてきてくれて、うちの車で私の運転で火葬場へと向かった。

火葬場へ行くのは人生で二度目だ。もちろん、縁遠いに越したことはない。

小学一年生の時に祖父の遺体が焼かれて、骨だけになって戻ってきて、その骨を拾ったことは自分の中でとても衝撃的な出来事だった。あれ以来自分は死が怖くて、ずっと目を背けて生きている、というかそうしないと生きられない。

火葬場は古い作りで、個人的には昭和を感じた。実際に建てられて何年なのか知らないが。

炉の前で最後にもう一度焼香をした。

炉の電動扉が完全に閉まり切った時、ここで本当に母との別れを実感した。遅いよね。鈍感なのかな、自分は。

1時間と少し、待った。館内放送で呼び出され、収骨室へ。

骨だけになった母と対面。もう、なんとも言えない。「悲しい」とも違う。言葉で表せない。私を産んでくれた人の最期の姿。

みんなで骨を一度だけ拾って、あとは斎場の係の方がやってくれた。

その方は年配の男性の方であったが、やはり、それを職業にするのは自分には無理だとまた思った。本当に尊い仕事だと思う。

骨壺へ全て収めて、桐の箱へ。

これで全てが終わった。

母は70歳でその生涯を終えた。やっぱり、日本人女性の平均寿命からすると早い、その一言に尽きる。

祖母が90過ぎまで生きたのと対照的に、立て続けに後を追うように亡くなってしまった。

私自身は、母の死の覚悟ができていたようでできていなかったことをあらためて思い知らされた。ここまで間近に死が迫っていたことをどこかで信じてなかった。目を背けてた。

ただ、母の死を受け止められていないわけではない。受け入れたくはないけど受け入れるしかないとわかってる。それが現実だから。

だけど、「気丈に振る舞おう」とか「強くいよう」とか、そういうことは無理してしなくていいとも思っている。自分を作る必要はない。

母の死を経験して、自分が何か変わったか。

普段の生活は何も変わらない。でも、やはり心の変化はある。

これまで以上に、物事に動じなくなった。だって、母の死より悲しいことなんてあれから一ヶ月、無い。これから先もそうそう無いと思う。

怒りの感情とかも、元々ほとんど無かったが、前にも増して湧かない。なぜなら、母の死と比べたら、何もかもちっぽけなことにしか思えないから。

母の死をきっかけに、自分を見つめ直したいという思いはある。それは特に、健康面。

母も祖父も、糖尿病だった。自分は、過去に母に「あんたも怪しいからやってみろ」と言われ、何度も血糖値を測るキットで測ったことがある。いずれも、何の問題もない数値だったがそれに慢心してはいけない。

もう何年もサボってる健康診断にも行かなければならないと思っている。

この15年で15kgは増量しているので、それも減らさなければならない。

そして、4人しかいない家族が3人になった。自分は結婚もしていないしする予定もない。妹も同様のようだ。

父は72歳。長生きの家系なのか、7人兄弟の六男の父は、上の兄5人は全員健在であるもののそれに安心はできない。

遺された3人でこの時代を生き抜いていくしかない。

と、ここまで自分視点で書いてきたが、私にはずっと疑問に思ってこの1ヶ月考えてきたことがある。

それは、「母が何を思っていたか」ということ。

この9ヶ月、私たち家族は母と接する時間は非常に少なかった。

遺書だったり遺言だったり、そのようなものも何も無い。

そもそも、母は自分に死が近づいていることを分かっていたのだろうか。この私の母だから、私みたいに目を背けていたかもしれない。

死の前日、父が急遽面会した時、「私もう死ぬんだ」と言っていたらしい。でも、それをもってイコール死を理解した、受け入れたとは言い切れないだろう。

私は最後母と会話はできなかった。だから、自分なりに母の思いを汲み取るしかない。

母は、母の人生を「幸せだった」と思って逝ったのだろうか。私たち家族の母で良かったと思ってくれただろうか。

こんな息子で、良かったのだろうか。

自分は、少なくとも人に胸を張れる人生は歩んでいない。でも、そんな息子でも母は「あんたを産んで良かった」と思ってくれただろうか?

その答えは、私にはわからない。

でも、今からでもできることがあるとしたら、それは私自身が「母ちゃんの息子に産まれてよかったよ」と母の墓前で言えることなのではないかな、と。

だからそう言えるような人生を、残りの時間歩んでいけたらなと思う。それが母への恩返しかな、と。

というか、それしかできない。時間を戻すことはできないから。

母ちゃん、今までありがとう。

どうか安らかに眠ってください。

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